外は分厚い雲がどこからともなく集まってきてどんよりと曇っている。
きっともうすぐ雨が降るのだろう。
すぐそこのテラスでは、せっせと洗濯物をしまうヨシノさんの姿が見えた。



曇り日に差す光



は通りかかったレストランの前にあるテラスでそんな彼女の背をぼーっと見つめていた。
今にも泣き出しそうな天気に対して穏やかな表情を浮かべながら干された洗濯物を取り込んでいるヨシノさん。
フリードさんでなくともこれは見惚れてしまう。
お手伝いしようかなとテラスへ足を動かそうとしたが、目に映ったあるものによって私はそっと踵を返した。
……げ、ゲンゲン……?
どうしてあんなところに?……もしかして干されてるの?
まだ取り込まれていない洗濯物の中にゲンゲンが干されているのを見つけてしまった。
いつからそうしているのだろうか。
彼は遠い目をしながらもおとなしく微動だにせずに物干し竿からぶら下がっていた。
乾いているのか毛並みはふわっふわであることがここからでもよく見てとれた。
桶に入れたゲンゲンを笑顔で洗い、嬉しそうに物干し竿に干すヨシノさんが頭に浮かぶ。
なんだか見てはいけないものを見てしまった気がした私はそのままふらふらと近くの階段を下りた。
ただただここにいてはいけない気がしたのだ。



……さてと、どうしようかな。
非番で暇を持て余し、さきほどから城内を散歩していたのだが、とうとう城内に見るところが無くなり建物の外へと出てきた。
外でいつも走り回って遊んでいる子供たちの声はこの天気のせいだろうか、今日は聞こえてこない。
聞こえてくるのは道場のほうからの掛け声と、穏やかな鳥の鳴き声ぐらいだ。
……うーん。……曇っているから外でお昼寝なんてできないしなぁ。
だからといって部屋でぼーっとして時間が過ぎるのを待つような過ごし方も嫌だ。
今日はいつも仲良くしている人たちは外に出払ってしまっていたり、仕事で忙しそうにしていた。
……あ、そうだ。
思いついた途端にぱあっと表情が明るくなっていくのが自分でもわかった。
この機会に本でも読んでみよう。
文字はあまり読めないけど、絵本でもなんでもいい。
勉強になれば時間も潰せるし一石二鳥だろう。
石畳にカツカツとブーツの音が小さく響く。
曇天を背に辿り着いた図書館の扉をそぅっと開けると紙の匂いがふわりと私を招き入れた。
図書館は相変わらず静かだった。
受付で司書を務めるエミリアさんに一礼すると、足音に気をつけながら私は奥の本棚へと足を進めた。
読書用の机が並ぶ空間ではアイリ率いる旅一座が黙々と本を読んでいるようだった。
ボルガンは絵本を一生懸命読んで言葉の勉強をしている。
アイリは料理の勉強だろうか。
机の上にはいろいろな料理の本が積み重なっていた。
リイナは紋章についての勉強をしているようだった。
その後ろの机ではマルロさんとコウユウ君が仲良く勉強をしているのも見られた。
……みんな勉強熱心だなぁ。私も頑張らなきゃ。
みんな本に夢中なのか、私が入ってきたことには誰一人として気付いてはいないようだった。

「……ん、と…。学習用の本棚ってここかな…?」

わずかに読める文字とそれっぽい表紙の本が飾られた棚を見つけると、私は背表紙とにらめっこを始めた。

「この世界の文字についての本とかない…かなぁ。文字、文字……」

エミリアさんに頼めばよかったと今になって思い、ちらりと本棚の隙間から彼女を見るが、どうやら彼女は他の利用客の対応中みたいだった。

「……文字、……文字…………あ!」

仕方ないと本棚に視線を戻して探していくと、上のほうの棚にそれっぽい背表紙の文字を見つけた。
背伸びをすれば届きそうな気がして、思いっきり腕を伸ばして背伸びをする。
本の背を指がなぞる感触。
もう少し、もう少し。
本の角を指で軽く掠めながら前へ前へと位置をずらしに掛かろうとすると背中にあたたかさを感じた。

「……これですか?」

すぐ上から降ってくる声にびくりと肩を鳴らしたが、本棚から本が抜ける音とともに私はその声に聞き覚えがあると理解してふぅと息を吐いた。

「驚かせてしまいましたか?」
「ふふ、ちょっとだけ……。クラウスさんも図書館に来てたんですね。お仕事ですか?」

いつもシュウさんたちとの会議で部屋に閉じこもり気味な彼と外で会う機会はあまりない。
それでもと行動をよく共にする私は自然とクラウスさんと会う機会もあったりするわけで。
友人とはいかなくとも雑談が話せる仲くらいにはなっていた。
本棚に囲まれた空間でにこりと微笑む彼に私も目を細めた。

「いいえ、もう終わりましたよ。でも、その後は暇だったもので本でも……と」

そう言うと、彼はさきほど引き抜いた本をすっと私に差し出した。
いろんな人が読んで勉強したのであろう年季の入ったその本の表紙には、この世界の文字を学習するものであることを示す単語が綴られていた。

「文字の勉強をなさるのですか?」
「はい。……その、覚える機会が今まであまりなかったので今のうちにちゃんと勉強しておこうかなって……え?」

私の言葉を聞くや否やクラウスさんは本を抜き取った本棚に再び目を配り始めた。
そしてそこからさらに数冊抜き取るとまた私に向き直った。

「では行きましょうか」
「……え?」
「……あ。その、私でよろしければお勉強のお手伝いをさせていただきますが……どうでしょうか?」

最後は消え入りそうな声で彼は困ったように微笑んだ。


あれからどのくらい経ったのだろうか。
雨になるかと思っていたのに、窓からはほんの少しだけ赤く染まった光が差し込み始めていた。
他の利用客に迷惑を掛けまいと館内の空いている机の中でも最も隅にある机に二人並んで椅子に腰をかけて勉強をしていたのだが、
夕刻となった今では私たち以外の利用客の姿はなくなっており、ぽつんと取り残されたようだった。
気付けばエミリアさんも司書室のほうへと戻っているようだった。
クラウスさんの丁寧な教え方により、私は文字や簡単な単語と文章の読み書きを少しだけ覚えられるようになっていた。

「……そう。次の文字はこう書き、これとこれを組み合わせると……」

講義を始めたばかりの頃と変わらずに彼の細長く綺麗な指に持たれたペンがさらさらと紙の上を流れていく。
そして浮かび上がった文字を私の唇が紡ぐ。

「クラウス」
「………!!」

合ってるかなと彼を見れば、口元を覆うように片手を添えてこちらを見ていた。
心なしか顔が赤いようにも見え、そっと彼の額に手を添えた。

、殿……?」
「……顔が赤い気がして。もしかして熱とか……大丈夫ですか?」
「だいっ……じょうぶですよ……」

口元を覆っていた手は彼の額に添えていた私の手をやんわりと包み、胸の前まで降ろされた。
そして小さく呟かれた言葉とともに彼の両手が私の手を包み込んだ。

「……クラウスさ……」

どうしたのかと彼の名を呼ぼうとすれば途中でぴたりと彼の人差し指が私の唇に当てられた。

「……殿、今日のテストです。……答えてください」

カリカリと目の前の紙に短い文章が綴られる。
文章を読み解くと私は目を丸くした。



私はあなたに名前だけで呼ばれたいです。



思わず彼を見ると、穏やかな表情で私の答えを待っていた。
外は徐々に晴れてきたのだろうか。
斜陽が彼と私を包み込み、お互いの顔の赤さなんてきっとわからないだろう。

「クラウス」

初めて彼のことをそう呼んだ私はなんだかとても気恥ずかしい気持ちになるが、
それと同じくらい嬉しさが込み上げてくるようで自然と口元は弧を描いた。
また一歩大切な仲間と距離を縮められたのだから。

「……正解です」

嬉しそうな表情で微笑む彼にそうだと私は彼の書いた文章の下にペンを走らせた。
不思議そうに覗き込んでいたクラウスは書き終わった文章に目を瞬かせ、再び口元を手で覆った。



私もあなたに名前だけで呼ばれたいです。
もっと仲良くなりたいです。
駄目ですか?クラウス?




「………!!」
「駄目なわけがありませんよ。私もずっとあなたとの距離を縮めたかったのですから……」

さきほどの私のように気恥ずかしそうな表情で微笑むクラウスに私も伝わってよかったと微笑み返せば彼の手が今度は私の頬へと添えられた。

「また、こうやってあなたの傍にいてもよろしいですか?」

添えられた手のあたたかさと視線が絡み合う感覚。
差し込む斜陽も手伝ってクラウスがとても格好良く……見惚れていたことに気付くと私はこくこくと必死に頷いた。

「ふふ、……可愛らしい。……おや、そろそろ図書館の閉館時間ですね。……名残惜しいですが行きましょうか」

カツカツと聞こえてくる靴音に目をやれば、司書室から出てきたエミリアさんと視線が合った。

「とても集中されていたみたいですね。お二人を見ていたらグリンヒルを思い出してとても嬉しくなりましたよ。勉強は捗りましたか?」
「はい!クラウスさんの教え方が上手でだいぶ捗りました!ね、クラウス!」
「ふふ、褒めても何も出ませんよ。頑張ったのはです」
「あらあら…。そうだわ、仲が良いお二人にこれを差し上げましょうか」

そう言うとエミリアさんは受付の机の引き出しから紙切れを一枚取り出して戻ってきた。
差し出されたそれを受け取るとエミリアさんは悪戯そうに微笑んだ。

「さぁ、なんて書いてあるでしょう?」

クラウスを見るとすでにこの手の平くらいの大きさの紙に書かれた内容を把握しておろおろとしていた。
紙に視線を戻して単語の羅列をひとつずつ読み解いていく。
おそらくレストランで行われている何かの優待券みたいなのだが、知らない単語が並んでいたのを見て思わず首を傾げてしまった。

「……城内レストランのなんとか限定ディナー無料チケット。……この単語、何だろう?」
「あら、この単語はね……」
「え、エミリア殿……っ」

楽しそうに笑うエミリアさんと慌てた様子のクラウスを交互に見ていると、エミリアさんは面白いものが見れたというようにふふふっと声を漏らして笑った。

「これはとても仲の良い者…という意味を表す言葉よ」
「………っ」
「わぁ、じゃあこれは仲良し限定のディナー無料チケットですね!こういうのやってるなんて知らなかったです!」
「はい、正解です。勉強熱心なので私からプレゼントです。期間限定らしいので今夜にでも二人でいってらっしゃい。
ちなみに裏面に注意事項が書いてあるからクラウスさんに読んでもらうといいですよ」
「エミリアさん、ありがとうございます!……クラウス、一緒に行ってくれますか?」

きゃっきゃっとエミリアさんと盛り上がる中、置き去りになっていたクラウスにチケットを差し出しておろおろと尋ねれば、彼はそのチケットを受け取り裏面を確認した。
しばらくの沈黙の後、彼は一度エミリアさんを見ると一礼した。

「もちろんですよ。……エミリア殿、ありがたく使わせて頂きます。……、行きましょうか」
「……はい!それじゃあエミリアさんまた来ますね!」
「ええ。是非、また二人でいらしてくださいね」

エミリアに手を振りながら図書館を出るとほんの少しだけ冷たくなった風が私たちを迎え入れた。
さきほどまで赤い光が差していたというのに外はもう薄暗くなっていた。
曇天から始まって徐々に晴れて気付けば雲の隙間から薄らと星が輝いているのが見えている。
なんだか今日の私の心を表わしているみたいだなんて思いつつ、隣を歩くクラウスの横顔をじっと見る。

「そういえば裏面にはなんて書いてあったんですか?」
「……!!……ええと、入店の際にこのチケットを見せて仲が良いという証明をするようにと。
例として書いてありましたが手を繋いでみせればよいそうですよ」
「クラウスと手を繋ぐ……」

言葉にすると頭の中でその光景が想像されてしまい、途端に顔が熱くなるのがわかった。
ぶんぶんと余計な想像を吹き飛ばすように首を振る。
……もう、これは仲良し限定イベントなんだから。
ナナミちゃんたちと繋ぐようなものなんだか……え?
目の前が真っ暗になったかと思えば、あたたかさが体全体からじわりじわりと伝わるのを感じ、そこでようやく私はクラウスに抱き込まれているのだと理解した。

「クラウス…?」
「あなたは本当に…可愛らしいですね……」

ふわっと微笑むとクラウスは私の額に軽く口付ける。
そしてもう一度だけと再び私を優しく抱き締めてから彼は体をゆっくりと離した。
混乱する私をよそに彼のほうは何か吹っ切れたかのようににこやかに私の手を取った。

「さあ、行きましょうか」
「え……っと……はい!!」

繋がれたまま揺れる手に伝わってくる彼の体温。
ああ、きっと明日は快晴だろう。
私の心を表わしているのならきっと……。

後日、この日に使用したチケットの内容が仲良し限定ではなくカップル限定チケットであったことを彼の口から聞き、頬を赤らめるのはまた別のお話。


<あとがき>
彼は敬称を付けて話すため、主人公だけには違う呼び方をしてほしいなと。
ちなみに裏面の注意事項には手を繋ぐほかにハグやキスの例も挙げられていました。
エミリアさんは司書室に戻るまでの時間、主人公を見るクラウスの様子を見て勘付きました。